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蝸牛角上

読書メモ。あらすじ。というよりダイジェスト?

レ・ミゼラブル その30 (ビクトル・ユーゴー作 豊島与志雄訳)

テナルディエの策略

 夜明けよりも2時間ぐらい前。

 テナルディエの亭主は、上等な部屋に泊めた男への請求書をしたためていた。


「一、夕食        3フラン

 一、室代       10フラン

 一、ロウソク代     5フラン

 一、炭代        4フラン

 一、雑用        1フラン

 合計         23フラン」


「23フラン!」

 かみさんは感心して叫んだ。


 請求書を渡された男は、しかしその中身よりも気になることがあるらしかった。

 かみさんは、コゼットを養っていることについて不満を漏らした。

「ではその厄介者を連れて行ってあげましょうか」

 と男は言った。

 かみさんは喜んだ。


 男が23フランを払おうとすると、テナルディエの亭主が、26スーでいい、と言い出した。

「部屋代が20スー、夕食が6スー。

 コゼットのことについては少し話があります」

 亭主はかみさんに席を外させて、部屋に男とふたりきりになった。


 亭主は、コゼットをかわいいと思っていると言い出したり、これまでコゼットを育てるためにかかった金のことなどを言い出した。

 コゼットが連れて行かれる先のことを心配してみたり、男の素性について聞き出そうとしたりした。

 男がいっさい取り合わないので、ついに亭主はハッキリと言った。

「私は1500フランいただきたいんです」

 男は1500フランをテーブルに置いた。


 男はコゼットに用意していた衣装を渡して着替えさせた。

 全身黒ずくめ。

 それは喪服だった。


 日が出ようとする頃。

 モンフェルメイュの人々は、みすぼらしい服装をした男が、大きな人形を抱えた喪服の少女の手を引いて、パリー通りを歩いていくのを見た。

最善を求むる者は時に最悪に会う

 亭主から1500フランを見せられたテナルディエのかみさんは言った。

「それだけですか!」

 なるほど、と亭主は言い、大急ぎで男とコゼットを追いかけた。


 コゼットの足は遅く、亭主には地の利があった。

 亭主は追いつき、コゼットを返してもらいたい、と言った。

「この娘を預けたのは母親ですから、母親にだけしか渡せません。

 あるいは、このひとに子供を渡してくれ、といったような、母親の署名した書きつけを持っているひとにしか」


 すると男は金の入った紙入れをとりだした。

 買収する気だな、と亭主は思ってうれしくなった。


 だが男が出したのは、一枚の紙片だった。

「このひとへコゼットをお渡しくだされたく候」

 と書かれた紙片には、コゼットの母親ファンティーヌの署名があった。


 テナルディエの亭主は、コゼットを育てるのにかかった費用についてくどくどと言い募った。

 男は、これまで亭主がファンティーヌに請求してきた金額の細かいところまで承知していて、それは先ほどの1500フランによって十二分に支払われたことを言った。


 男はコゼットの手をひいて、テナルディエを無視して歩き出した。


 テナルディエはくやしがった。

「俺はばかだった。

 銃も持たずにさ。

 猟にきたわけなのに!」


9430号再び現われコゼットその籤を引く

 ジャン・ヴァルジャンは死んだのではなかった。

 海へ落ちた彼は、水中をくぐってある船の下まで泳ぎ、その船につないであった小船に隠れて探索をやりすごした。

 パリーに行き、コゼットのための喪服を購入し、住居を求めた。

 新聞を手に入れ、自分の死亡記事を確認して安堵をおぼえた。

 それからモンフェルメイュへ赴いた。


 そしてコゼットをテナルディエ夫婦から救い出すと、その日の夕方、コゼットと一緒にふたたびパリーに入った。

 

レ・ミゼラブル その29 (ビクトル・ユーゴー作 豊島与志雄訳)

貧富不明の男を泊むる不快

 宿屋に帰り着くと、コゼットはさっそくテナルディエのかみさんに、帰りが遅い、と叱られそうになった。

 コゼットは一緒に歩いてきた男を紹介し、それを回避した。

「あの方が、泊めてもらいたい、って来ています」


 テナルディエのかみさんは一瞬、愛想をよくしかけたが、男のみすぼらしさを見て、すぐにひっこめた。

「たいへんお気の毒だが、部屋があいてませんよ」

「物置でも厩でもよろしいのです」

「40スーですよ」

「承知しました」

 しかし、通常は20スーなのだった。


 男は、テーブルの席についた。

 ぶどう酒をなめながら、異様な注意でコゼットを眺めだした。


 コゼットは醜かった。

 陰鬱な顔つきをしているうえに、やせて青ざめていた。

 破れた着物を着ていて、その一挙手一投足にはつねに恐怖の念が現れていた。

 恐怖のために彼女は、できるだけ小さく縮こまり、ようやく生きるだけの息をついていた。

 恐怖の念に強く支配されているコゼットは、濡れている着物をかわかそうともせず、黙って編み物の仕事をはじめていた。


 テナルディエのかみさんは、コゼットにパンを買ってくるように言いつけていたのを思い出した。

 コゼットはそのことをすっかり忘れていた。

 さらに代金の15スーを紛失しているのに気づいて、石のように固くなった。

 かみさんが鞭に手を伸ばした。

 男が割って入った。

「さきほど娘さんのポケットから」

 落ちたのだと、男は20スー銀貨をかみさんに渡した。

「そう、これです」

 かみさんはひきさがった。


 テナルディエ夫婦のふたりの娘、エポニーヌとアゼルマが部屋に入ってきた。

 かみさんはふたりを好きに遊ばせた。

 ふたりが人形で遊ぶのを、コゼットはぼんやりと見入った。

 かみさんがそれを咎めた。

 またもや男が割って入り、5フランをかみさんに渡して、コゼットを編み物仕事から解放した。


 エポニーヌとアゼルマは人形を放り出し、猫に夢中になった。

 コゼットはこっそりと人形を拾って、抱きしめた。

 エポニーヌとアゼルマがそれに気づいて、かみさんに告げ口した。

「コゼット!」

 かみさんに怒鳴られて、コゼットはその日はじめて涙をこぼした。

 男は宿屋の外に出て行った。

 素敵な人形をかかえて、男は戻ってきた。

 コゼットが「奥様」と呼んでいた、村の子供たちあこがれの人形だった。

「お前さんのだ」

 男はコゼットに「奥様」を渡した。

 コゼットは「奥様」を椅子の上に置くと、自分は地べたに座って、じっと見入った。


 服装はみすぼらしいが、この男には金がある。

 そう踏んだテナルディエの亭主は、男をいちばん上等な部屋に泊まらせた。

「私には厩でも同じだったのに」

 男はつぶやいた。


 亭主が寝室に入ると、さきに床についていたかみさんが言った。

「明日になったらコゼットを叩き出してしまいますよ」


 一方、上等な部屋にひとりになった男は、足音がしないように靴をぬぐと、部屋を出た。

 階段の下の隙間に、コゼットの寝床はあった。

 そばに扉があり、かなり広い部屋に通じていた。

 テナルディエ夫婦の子供たちの寝室だった。

 火の消えた暖炉のなかに、娘たちの靴が置かれていた。

 サンタクロースのプレゼントを入れてもらうためのもので、ふたりの娘の靴の中では10スー銀貨が光っていた。

 コゼットの木靴も置いてあったが、空っぽだった。

 男はルイ金貨をひとつ、木靴に入れた。

レ・ミゼラブル その28 (ビクトル・ユーゴー作 豊島与志雄訳)

少女ただひとり

 人気のない夜の小路を、コゼットは桶を抱えて進んだ。

 人家が絶え、野に出た。

 暗いさびしいひろがりが、彼女の前にあった。

「かまやしない!」

 恐怖はコゼットを大胆にした。

「水はなかったと言ってやろう」

 コゼットは来た道を引き返した。


 百歩ばかり戻ると、今度はテナルディエの女房の姿が脳裏に浮かんできた。

 夜の闇も怖いが、女房も怖かった。

 逡巡した末に、コゼットは再度きびすを返し、水を汲むために走り出した。

 走りながら、泣きたくなった。


 泉にたどりつき、水を汲んだ。

 その際、ついでにパンを買って来い、と渡されていた15スー銀貨が水の中に落ちた。

 コゼットは落としたことに気がつかなかった。


 水の入った桶は重く、帰り道は休み休みでなければ歩けなかった。

 ふいに、桶の重さが消えた。

 コゼットの後ろからやってきたひとりの男が、桶を持ち上げたのだった。

ブーラトリュエルの明敏を証するもの

 1823年のクリスマスの日の午後。

 パリーのオピタル大通りの最も寂しい所を、ひとりの男がうろついていた。

 非常なみすぼらしさと、非常な高潔さとを持ち合わせた、珍しいタイプの男だった。


 国王ルイ18世は、ほとんど毎日のようにオピタル大通りを通った。

 護衛の騎兵が、うろつく男を発見した。

「人相のよくない男がいます」

 男を追跡せよ、と命令を受けた警官が、男を追った。

 男は小路に身を隠し、警官をまいた。


 午後4時半。

 男はランニー行きの馬車に乗った。

 6時ごろにシェルに着いた。

 男はランニーまでは乗らず、そこで降りた。


 それから男は、モンフェルメイュに通ずる村道を進み、途中で野を横切り、森の中に入った。

 栗の木が立っていた。

 皮がはがれた部分に包帯として亜鉛の板が打ちつけてあった。

 男はその亜鉛の板にさわり、その木と石の山との間の地面を、確かめるように踏んだ。

 それがすむと、彼は方向を定めて森の中を歩き出した。


 コゼットが出会ったのはこの男だった。

コゼット暗中に未知の人と並ぶ

「この桶はお前さんには重すぎるようだね。

 私が持っていってあげよう」

 コゼットは男を怖がらなかった。

 男はコゼットと並んで歩き出した。


 8歳であること、母親がいないことなど、コゼットは男に訊かれるままに自分のことを答えた。

「お前さんは何という名前だい」

「コゼット」

 男はあたかも電気で打たれたようだった。


 コゼットがテナルディエの宿屋で暮らしていることを話すと、男は今夜はそこに泊まろうと言った。

「テナルディエのかみさんには女中はいないのかね」

「いません」

「お前さんひとりなのか」

「ええ。

 でも娘は二人あります」

「何をしている、その人たちは」

「遊んでおもしろがってるの」

「一日中?」

「ええ」

「そしてお前さんは?」

「私は、働いてるの」

「一日中?」

「そうよ」


 宿屋の近くまで来ると、コゼットは桶を返してくれるように言った。

「ほかの人に桶を持ってもらってるのがみつかると、おかみさんにぶたれるから」

 男は彼女に桶を渡した。

 

 

レ・ミゼラブル その27 (ビクトル・ユーゴー作 豊島与志雄訳)

モンフェルメイュの飲料水問題

 モンフェルメイュは、リヴリーとシェルとの間に位置し、ウールク河とマルヌ河をへだてている高台の南端にある。

 のちのちには大きな町になるが、1823年には、それはただ森の中の一村落にすぎなかった。


 モンフェルメイュの欠点は、水が不自由なことだった。

 かなり遠くまで水を汲みにいかないといけなかった。

 テナルディエの家で、下女のように働かされているコゼットにとってそれは大変な仕事で、特に夜に水を汲みに行くことは身震いがするほど恐れていた。


 クリスマスの夜。

 テナルディエの宿屋。

 コゼットはいつものように、料理場の隅で命じられた仕事をしていた。

 子供が泣き出した。

 テナルディエ夫婦が先年の冬にもうけた男の子だった。

ふたりに関する完稿

 テナルディエ夫婦のこと。


 亭主は50歳の坂を越したばかりで、女房は40代。


 女房は野蛮な大女。

 亭主は顔色の悪い小男で、不健康そうに見えるが、じっさいは頑健だった。


 亭主は1815年のワーテルローの戦場で盗んだ金目のものを元手に、モンフェルイュで飲食店兼宿屋をひらいた。

 一見すると、女房が亭主を尻にしいているように見えるが、じっさいは逆で、主導権は亭主が握っていた。


 金持ちになることが亭主の夢だったが、叶っていなかった。

 1823年、彼は1500フランばかりの借金を背負っていた。


 夫婦は、それぞれ異なったやり方で、コゼットを圧迫した。

 コゼットはぶたれた。

 それは女房のほうだった。

 コゼットは冬も素足で歩かされた。

 それは亭主のほうだった。


 コゼットは、あたかも蜘蛛に仕える蝿のようなありさまだった。

人には酒を要し馬には水を要す

 コゼットはまだ8歳だったが、悲観的だった。

 彼女のまぶたは、テナルディエの女房に打たれたので黒くなっていた。

 女房は言った。

「目の上にシミなんかこしらえてさ。

 なんて醜い子だろう!」


 夜になっていた。

 水がなくなっていた。

 宿屋に泊まっている行商人が、自分の馬がまだ水を飲んでいない、とクレームをつけた。

 コゼットは、もうやった、と嘘をついた。

 だがすぐに見破られた。

 テナルディエの女房に怒鳴られ、コゼットは自分の身体より大きな桶を抱えると、水を汲みに行った。

人形の登場

 露店の列が、教会堂からテナルディエの宿屋のところまでひろがっていた。

 列のいちばん端に、オモチャ屋があった。

 オモチャ屋のいちばん前の棚には、美しい人形が置かれていた。


 コゼットはその人形を「奥様」と呼んでいた。

 女王か王女でもないかぎり、この人形を手に入れることはできないだろうと思っていた。

 水汲みの用事を言いつかっていることも忘れて、コゼットは人形に見入った。


 と、テナルディエの女房の荒々しい声が、彼女を現実にひきもどした。

「ばか娘、まだ行かなかったのか!」

 コゼットは大急ぎで逃げ出した。

 

レ・ミゼラブル その26 (ビクトル・ユーゴー作 豊島与志雄訳)

24601号より9430号となる

 ジャン・ヴァルジャンは再び捕えられた。


 新聞は、次のようなことを報じた。

 彼がマドレーヌと名乗っていたこと。

 事業を興して成功し、市長にまでなっていたこと。

 逮捕後に脱走し、3、4日後に再び捕まったこと。

 脱走中に銀行から莫大な預金をおろし、どこかに隠したらしいこと。

 無期徒刑に処せられ、ツーロンの徒刑場に送られたこと。


 マドレーヌ市長ことヴァルジャンが去った後。

 モントルイュ・スュール・メールの町から繁栄は消滅してしまった。

 産業は廃れ、仕事はなくなり、貧しい者への助けもなくなってしまった。 


2行の悪魔の詩が読まるる場所

 脱走し、逃走していた数日間。

 ヴァルジャンはモンフェルメイュ付近をうろついていたらしい、と検察官はにらんだ。


 その頃から、モンフェルメイュでは、ブーラトリュエルという道路工夫が、

「森の中で妙なことをしている」

 と噂が立った。

 ブーラトリュエルは道路工夫としての仕事を早めにきりあげると、ツルハシを持って森に入っていき、あちこちに穴を掘っているようなのだ。


 興味を抱いたテナルディエが、ブーラトリュエルに酒を飲ませ、何をしているのか聞き出したところによると。

 ブーラトリュエルはある朝、森の片隅の藪のなかに、クワとツルハシが置いてあるのをみつけた。

 またその日の夕方、ひとりの男が何かの包みを持って、森に入っていくのを見た。

 2、3時間後、森から出てきたとき、その男は包みを持っておらず、代わりにクワとツルハシを持っていた。

 ブーラトリュエルは、男が持っていた包みには金が入っており、それを森のどこかに埋めたのだろうと推測した。


 ブーラトリュエルは森のあちこち、怪しい場所をしらみつぶしに掘り起こした。

 しかし何も掘り当てられず、そのうちにあきらめてしまった。

鉄槌の一撃に壊るる足鎖の細工

 1823年の10月末。

 ツーロンの港には、軍艦オリオン号が停泊していた。

 暴風雨によって傷んだ箇所を修理するためだった。


 ある日の朝。

 オリオン号の右舷で、ひとりの水夫が海に落ちそうになった。

 やっとのことで綱にぶら下がった彼が、海に落下するのは時間の問題だった。


 徒刑囚のひとりが、救出にむかった。

 徒刑労役として働いていた囚人のひとりだった。

 彼は、士官の許しを得て、足の鉄輪についていた鎖を鉄槌でうち壊すと、水夫のもとへ走った。

 駆けつけるのが1分も遅ければ、水夫は助からなかっただろう。


 水夫を助けた囚人が、持ち場に帰ろうとしたとき。

 疲れのためか、囚人はよろめき、叫び声をあげて海に落下した。

 危険な墜落だった。

 軍艦アルゼジラス号がオリオン号と並んで停泊しており、どちらかの船底に巻きこまれる危険があった。

 ボートが出され、落ちた囚人を探した。

 が、死体さえ見つからず、囚人は溺死したものとして処理された。


 その囚人は在監番号9340号、ジャン・ヴァルジャンという名前だった。

レ・ミゼラブル その25 (ビクトル・ユーゴー作 豊島与志雄訳)

ワーテルローは祝すべきか

 世の中には少しもワーテルローを憎まない、尊敬すべき自由主義の一派がいる。

 私(著者)はその仲間ではない。


 ワーテルローは、反革命の勝利である。

 フランスに対抗するヨーロッパの勝利であり、

 進取に対抗する現状維持の勝利である。


 反革命は自ら欲せずして自由主義となった。

 ナポレオンも自ら欲せずして革命家となった。

神法再び力を振るう

 執政官制の終焉。

 ヨーロッパの全様式は瓦解した。


 ナポレオンがロングウッドの住居において臨終の苦悶をけみしつつある間に、

 ワーテルローの平野に倒れた6万の人々は静かに腐乱していき、

 彼らの平和のあるものは世界にひろがっていった。

 それをウイン会議は1815年の条約となし、

 それをヨーロッパは復古と名づけた。

戦場の夜

 1815年6月18日の夜は満月だった。

 最後の砲撃がされた後、モン・サン・ジャンの平原には人影もなかった。


 戦争の最もはなはだしい醜悪のひとつは、戦死者のこうむる略奪である。

 6月18日から19日へかけての夜、死者は続々と略奪をこうむった。


 戦場跡を、ひとりの男がはいまわっていた。

 胸甲騎兵の突撃をさまたげた断崖は、ぎっしり積み重ねられた馬と騎兵とでいっぱいになっていた。

 上部は死骸の堆積、下部は血潮の川。

 積み重なった死骸から、一本の手がつきでていた。

 手には黄金の指環がはまっていた。


 はいまわっていた男は、指環を抜き取った。

 立ち去ろうとすると、指を抜き取られた手が、男の上衣の裾をつかんだ。

 男は、手の主を死骸の下からひきずりだした。

 それは将校で、しかも相当の階級の者らしかった。

 男は、その将校の身体から勲章をもぎとり、ふところから時計や財布を盗み取った。


 すると将校が目を覚ました。

「ありがとう」

 将校は礼を言った。

「僕のポケットを探してみてくれ。

 財布と時計があるはずだ。

 それをあげよう」

 目の前の男によってすでに盗まれているとも知らず、将校は言った。

「君は僕の生命を救ってくれたのだ。

 何という名前だ?」

「テナルディエです」

「僕はその名前を忘れまい。

 君も僕の名前をおぼえていてくれ。

 僕はポンメルシーと言うんだ」

 

レ・ミゼラブル その24 (ビクトル・ユーゴー作 豊島与志雄訳)

破滅

 ナポレオン軍は壊走した。


 混戦の最悪なるものはすなわち壊走である。

 戦友も逃げんがためには互いに殺し合う。

 騎兵隊と歩兵隊とは互いにぶつかって砕け散乱する。

 戦いの大いなる泡である。


 ナポレオンは逃走兵のうちを駆け回って、

 彼らに説き、

 うながし、

 威嚇し、

 切願した。

 その朝、

「皇帝万歳!」

 を叫んだすべての口は、今はただ呆然とうち開いているのみだった。

最後の方陣

 近衛兵の数個の方陣は、壊走のなかにふみとどまって、夜になるまで支持していた。

 夜は来て、また死も来た。

 各連隊は孤立し、各自に最後を遂げていった。


 夜の9時ごろ。

 モン・サン・ジャンの高地の裾に、方陣のひとつが残っていた。

 その一隊がひとにぎりの兵数にすぎなくなったとき、イギリスの集中攻撃の準備が整った。


 イギリスの将軍は彼らに叫んだ。

「勇敢なるフランスの兵ら、降伏せよ!」


 カンブロンヌは答えた。

「糞ッ!」

カンブロンヌ

 あの言葉を発して、次に死する。

 それ以上に偉大なことがあろうか。

 なぜならば、死を欲することは実際に死することである。


 ワーテルローの戦いに勝利を得た者は、

 敗北したナポレオンでもなく、

 4時に退却し5時に絶望に陥ったウェリントンでもなく、

 自ら戦闘に加わらなかったブリューヘルでもない。


 ワーテルローの戦いに勝利を得た者は、

 彼、カンブロンヌである。

 自分を殺そうとする雷電を、かくのごとき言葉で打ちひしぐことは、すなわち勝利を得ることである。


 カンブロンヌの一言に、イギリス人は答えた。

「撃て!」

 砲列が火を噴いた。

 煙が散ったときには、もはや何物も残っていなかった。


 近衛は全滅した。


指揮官へは何程の報酬を与うべきか

 ワーテルローの戦いは、ナポレオンにとってはひとつの恐慌だった。


 ウェリントンは戦いの数学者である。

 ナポレオンは戦いの芸術家である。

 そしてこのたびは天才は計算に負かされたのである。


 ナポレオンはグルーシーを待っていたが、彼は来なかった。

 ウェリントンはブリューヘルを待っていたが、彼はやって来た。


 ワーテルローは、二流の将帥によって勝たれたる一流の戦いであるる

 ワーテルローの戦いにおいて賞賛しなければならないのはイギリスであり、イギリスの強靭、イギリスの決意、イギリスの血である。

 その将帥でなく、その軍隊である。


 今日、ワーテルローの平野には、夜、幻の靄がたちのぼる。

 大破滅の幻覚が。

 歩兵の列、疾駆する騎兵。

 サーベルのひらめき、銃剣の火花、破裂弾の火災。

 瀕死のあえぎのごとき、幻の戦いの叫喚のひびき。

 あの影は擲弾兵

 あの微光は胸甲騎兵。

 あの骸骨はナポレオン。

 あの骸骨はウェリントン

 その上には、互いに殲滅しあう幽鬼の旋風が荒れ狂っている。